光雲寺について

光雲寺の歴史

 光雲寺は言い伝えによると僧行基が、英彦山麓即ち本河内村昌源に一寺を創建して、島原温泉岳(現雲仙岳)の高杣一乗院満明寺「大宝元年(701)年創建、法相宗行基菩薩の開基でその後真言宗祖空海上人継紹」の支院とした。  
 世降りて天正2(1574)年大村純忠が吉利支丹布教上の障害を除くため、長崎及びその付近に於いては、神仏両道は厳禁し住民は皆吉利支丹宗門に転宗を強いられ、之に従わざるものは領外に退去を命ぜられ、神社仏閣は大村の兵に護衛された吉利支丹教徒により皆焼き払われ、光雲寺もこの吉利支丹の災に罹り堂宇は破毀されて一物も残るものはなかった。  
 正保3(1646)年曹洞宗の僧松雲宗融が晧台寺重興開山一庭融頓と共に之を再興し、現在の出来大工町に移した。  
 何の歴史の不思議か、昭和6(1931)年かって堂宇の有りし場所の一部に聖母の騎士修道院が建てられ、キリスト教の布教が行われている。

光雲寺の本尊

中国明時代中期の渡来仏。寛文3(1663)年、火事で傷んだため京都へ修繕に出した際、
後水尾上皇から"日本一素晴らしい仏像である"というお言葉をいただいたという逸話が残されている。

釈迦如来像 釈迦如来像

光雲寺所蔵の仏像

背面の陰刻による銘文によるとこれらの像は承応2(1653)年赤星八左衛門によって作られた。赤星八左衛門は仏具屋八左衛門と称される長崎の鋳工であった。諱は宗徹。
各像の銘文の中には発願者の名が記され、その中には諏方神社の梵鐘を作った金屋助三郎国房の名も見える。

聞香尊者 聞香尊者
降神尊者 降神尊者
阿難像 阿難像
補衣尊者 補衣尊者

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